昭和46年10月30日 朝の御理解
御理解第96節
「世の人があれこれと神の事を口端にかけるのも神のひれいじゃ。人の口に戸は立てられん。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるような事を言うても、腹を立てな。神が顔をあろうてやる。」
どんなに世の人が顔に関わるような事を言うても、腹を立てぬ私。腹を立てなという所が、その次の神が顔をあろうてやるというほどしのおかげになってくるんですよね。だから、ここで腹を立てたらいつまでも腹を立てどうし、顔をあろうてもらえる氏子が無いわけです。悪口言われたら言われたなり。それじゃつまりませんですわね。ここはじっと辛抱しとかにゃ。と言うてその、辛抱やら腹を立てんですむようなおかげを頂くから神様が顔を立ててくださるほどしのおかげになってくるんです、ね。
もちろん、その顔に関わるような事を言われた時に一々、ね、それこそ赤面弁慶になってから言い訳をするというようなのはいよいよつまらんわけですね。ここんところが大事、それから次に、ね。世の人があれこれと神の事を口端にかけるのも神のひれいじゃと仰る。神のひれいじゃということを知ったらです、ね。
腹を立てんだけでは無い、お礼を言いたいような心が生まれてくるでしょうね。神のひれい、神様のひれいというものが、神の勢い、神様の働きが生き生きとしてあっておる時だという意味なんです、ね。神様の働きは生き生きとしてあっておると。神様のひれいが(いよいよ?)輝くという、ね。
だから、神様のひれいが輝くその状態、それが困った事もありましょう、腹の立つような事もありましょう。人の悪口を言うような事もありましょう。だから、そこのところをです、ね。腹を立てる、立てるだけ、立てないだけでは無くてです、ね。神のひれいだとほんとに分かったら、お礼を申し上げられるわけであります。
それが、うーん、相手が分からんのだから、言うならば相手が子供だからと思うたら腹が立ちませんよね。子供が例えばばかと言うても、ね。腹が立たんようなもんです。だから、そういう受け方。相手が分からんのだから、ね。人間の心理状態の中には、人が調子をうっておると(ごばんにん?)がそれを妬む。そういうような心の事、ね。家を建てたり、小屋を建てたりすると隣の人が腹を立てると。
これはまあ、ほんとに人間の心の中にはそういうものがあるんですよ。隣(?)拾った、隣に立派に家がたった、倉が建った、また倉が建った。という事を喜べるという、喜ぶ、喜べるといったような、喜びでやるといったような心は、なかなか出来るもんじゃないですよね。
でもそれが出来ると言うなら、もうほんとにその人は神(心?)に近い人です。あんた(何いいっよっとね。負けてしまうばってんからろくな事せんにゃ負けた人と ? )悪口を言うと、ね。そういうものが人間には、誰しもやはりあるわけなんです。そこでです。そこで、(皆が体験しとりますね、?)相手の気持ちになってというか、あの人ならああもあろうと思う心です。ああもまた言いたかろうと思う心なんです、ね。
それがたとえ悪口でありましても、そうなんです。要するに、それはね、そういうような心の状態になるとね、神が顔をあろうてやるというほどしのおかげを受けられることのためですから、これは本気で一つそこの所を頂かないかんとですよね。人間だとやっぱ腹が立つですもんねと、言いよっといつまでも神様が顔をあろうてくださるようなことにならんです。
(?しい)うーん。(?)でかえってお商売をさして頂いておる。そのもう店の方が借金、それからもういわゆる、んー、赤字続きという。いわゆる、んー、(私の働いてもらっておるところのうちに、?)いわゆる給料ば支払ってなかった。もちろん支払おうと思うけども、(支払われないんじゃありませんか。?)
ですからその給料をもう、それも31日のもうおそうでした。夜遅くの晩です。もう、ようやくおかげで、まあ、給料だけは支払える。あの(?)向こうもこう、いうなら私の銭の状態が悪い事を知っておりますから訳を言えば、ああー、いいと思うて、んー、( ?もあげれんけれども?)けれども、ぎりぎりそれこそ31日ぎりぎりに支払いに行ったんです。そしたらむこうでは、31日の土曜ですから( ? )から御神酒がいっぱいあがっとりました。
それでまあ、それを教えると向こうも、急に( ? )もうそれこそ鼻であしらうような、ふんといったような態度とられましたけれども、まあとにかく腹を解き放って、えー、まあ、そこを、んー、帰らして頂きまして、帰る時に、襖をこう閉めて出てきましたら、「開けといて下さい。幽霊がまだ出て行かないけんですから。」
(?)しまっとったっちゃでしょ。だから、その、閉めたんです。そしたら、開けといてくださいっち。(もうその横から声ばした?)幽霊がまだ出て行かなんから。まあ、言うならわたくしが貧乏だからって貧乏神という意味でしょう。もちろん酒もいっぱいのんどった、のんどられたんですよ、ね。もうほんとに(あそこの一時?)ばっかりはほんとに、まあ、煮え繰り返るっちゃこのことじゃろっち思いよった感じでしたね。
けれどもですね、その、そういう煮え繰るような、返るような。たとえば、心が(ぐう?)一つがんばらしてもらうというものがですけれども、神様へ向かって、もうそりゃ真剣お詫びを申し上げるような心が出来てまいりましたら、もうこうすっきりして、なるほど、貧乏神と言われりゃ、はいそうです。貧乏してるんだから嘘じゃないもんね。嘘を言ったわけじゃない。
しかも、相手はいっぱいお酒を飲んで(いいきらっとじゃん?)。それを、腹を立てきったけれども、腹を立てとるとを抑えるだけではなくて、次には、ね。腹を立てんですむ心になるということ。そして、かえってそこから奮発心が出た事に対してはお礼が言える。
なるほど、貧乏神と言われても、事実貧乏しとるじゃから、嘘じゃないんだから、あの人としては、ああも言いたかったろう、心に思うとるだけじゃない、お酒の勢いでああ言われたけれども、と思わせて頂いた。まあ、そういうようなことがですね。まあ、いろんな意味でありました。
(段々人の助かりになってくるのも?)そうでしたよね。(感じも?)やはりもう、やはりごひれいだと思いました。もうとにかくあの当時の椛目の時代、もう周囲の人達が、助かってない、合楽に御縁を頂いて助かってない人達以外の人はもう皆、当時の椛目の事を悪口言いましたね。もう棒にも箸にも架からんような悪口でした。
それが聞こえてくるんですよ。けれどもやっぱりその時のにはね、もう腹の立つ段じゃなかった。やはり神様のヒレイと思うた、ね。神様の勢いがね、もう勢いの(ような?)、ある意味ではそげんに、もうそれまでのごとしに、おかげを頂きよると言うですからありがたかった。何を(となえよっか?)ともう、気持ち起こらなかった。
そういう、例えば、あー、受け方とか受けられ方、ね。相手が子供だから、相手が分かっておられんのだから、相手は(先の見えるようにはせんとじゃから。?)というように、色々、まあ、思うてみて、ね。腹を立てんですむ工夫をさして頂くということと同時にです。それが神のひれいじゃと、真実分からして頂いたら、ね。お礼が言える。
秋永先生が、前の奥さんとのトラブルのあった時分。(?)ちょうどお便所に、もう、小便所と大便所が(ひっつきよった椛目の時分でした。?)便所にはいっとるいうことを聞いとりました。秋永先生が、ね。その前の小便とこ、小便をこうしながらね。「こんちくしょう」ちゅってからその、おー、( ? )聞こえよる。( ? )聞こえた。ほんとにこんちくしょうであろう。
それこそ、男の顔を(踏みにじって、?)ね。男の顔にいわゆるかかわる(というても?)それこそ踏みにじるようなことをして。それでも彼が許してやろうと思うておるのに、またもこういうことをしでかして。(もうそういう時代なんです。?)もうほんとに、こんちくしょう(ちゅうごとあるばってん?)思うて、(ゆうべなかで?)聞いてやった人がです。
もうほんとにそれを(きかして。?)それもああんなろう。それこそ、男が男泣きに泣いて、血の涙も流れるような時であろう。と、こう、まあ、思うたというてお届けされた(わけではないです。?)それと同じようなことをです。秋永(ひでお?)さんは当時いっておりました。
もう確かにもう、ほんとにもう、ほんとにこんちくしょうという(ごと?)があるけれども、もうその、そういうふうに思うてその、腹の底からですね。けれども神様は、こういうところを通らせなさるということはです。このあとでどげなおかげば下さるじゃろかと思うたら、しれっと笑いたいような心が起きて来たというようなことを、言っとりましたね。
私は、信心のここがありがたいと思うんです、ね。なるほど、実際に目の前で見たり、聞いたり、ね。それこそ男の顔を踏みにじるようなことをしてですよ、ね。ほんとに、(もう?)撃ち殺しても足らんような、腹の立つような思いがする(こう一切、?)もうそれこそ、しょんべん(丸々でも?)こんちくしょうと、言いたいような時(ですたい。?)
けれども、これほどの、たとえの修行、苦しみを神様が与えなさるということはね。この後に、神様はどげなおかげばくださる(つもりごじゃるじゃろうかと?)思うたら、そういう、(したら?)そこからです。しれっと笑いたいような心が起きて来たと言うております、ね。いうなら、神の比例というものを、段々わかってきたわけであります。
神様の心というものを段々わかって来て(おるということ?)今日は、私、御神前に(出らせて?)頂きました時に、皆さんご承知でしょうかね。あのー、狂言に(みよしやま?)っていうのがあります。女ばっかり出るお芝居です。(みよしやま?)、ね。あの中に、いじめ官女というのがおります、ね。
若い娘が、言わば、その、自分の恋人が恋しさの余りに、大きな屋敷にその人を訪ねてくるわけです。もう大変な(男でしょう?)そこに、官女達がたくさん、いわゆる、えー、まあいうなら女中さん(どもが?)たくさんおるわけです。それがその、おー、その人に会わせてくれとこう、言いますよね。
会わせてやるから、その、歌を歌えとか、会わせてやるから踊りを踊れとかというて、そういうて、5,6人の官女がもう、毎晩いじめていじめていじめ抜く所があります。(しかしね、?)それが、今日はいじめ官女を頂く、頂くんですよね。いじめ官女と言われる、ね。いうならその芝居を見ておる者がどういうふうに見ておるか、というとね。その、いじめられておる、その、(おいらん?)のいじらしい姿に涙しておる。
いじめ官女の(方が悪いと、?)いじめ官女の方を褒め称えておる。いやいや、いじめられておる方、人間の方を(清い?)と思うておる。その耐えておる、辛抱しておるという事、ね。ですから、いうならば、あの芝居に、あそこにいじめ官女がいなかったらです。もう、それこそ、(平板?)なお芝居なんです、ね。
いじめ官女のおかげで、(おいらんが ? )いうなら、いうなら芸の見せ所というか、ね。その、(そういうの?)をそこに表現することが出来る、ね。だから、私どももね、例えばいじめられるということは嫌ですよね。いじめる。もう、心でこなすという人がありますよね。形でこなす人もあります。子供の時なん、子供の時にはやっぱ( ?しょう)必ず。
そうすっと、親はもうそれこそそれが、子供がこなされよっとはがいいから、ね。向こうに怒鳴りよっていきたいごとある。いじめるという、いじめられるということは嫌な事。けれどもね、実を言うたらいじめられる事によって、育っていくんです、これが。いじめられる事によって、分かっていくのです。いじめられることによっていよいよ神意の深さ、神愛の、おー、神様の願い、神様の思いというものが、いよいよ深く広く分かっていくのです、ね。
いじめ官女にこそ、いうならばお礼を言わなければならんのです。私どもが、世の人だとこう言われるが、世の、世の中を渡って、世の荒波をとこういうかね。その世の荒波の中には、そういうような事があるのです。今こそ、いじめられておる時であろうと、ね。そのいじめられておる時にです。ただ、歯を食いしばって、そこを辛抱していくということではなくてです、ね。
それこそ、世の人が顔にかかわるような事を言うていじめる。そんなもんですね。私どもが本当に金光様、金光様、ありがたい、ありがたいと。特にいうなら皆さんの場合はもう合楽、合楽はもうそれこそ日本一の(ごと?)皆が思うてお参りをしてくる来る。その日本一のごと思うておる教会の事やら、教会の先生の事やらを悪い事言われたら腹が立つでしょ。また腹が立たんごとあるならおかしいです。ね、そうでしょ。
教会愛というものがお互いにあるから、教会の事を悪口を言われると、腹が立つというか。けれどもです、ね。けれども、そいう時に腹を立てんですむほどしのおかげを頂く。だからいっぺん、腹が立つほどしのところまでみなさんいききる、ね。(?)の高山さんではないですけども、もう、まあそんなことありましたよ、もう。息子も一緒に信心いたしますから。もう20年も前の話ですけどもね。もう、熱心に毎日お参りしとりましたでしょうが。
ほんでも息子が神様ばっかり、金光様ばっかり、(おごっちから ? 悪口がちょっとそげな ? )がそしてもう金光様の悪口をえらい言うわけです。ところがでも、親が、親にちゅったらその、うーん、腹の立つ時に(親がすいとるのに?)親が一番金光様の事ありがたいと思うとるとば悪口言うとが一番効くわけですよ。(おまえあたりが一番そげんことばいうもんやない?)というてから( ? )。弟が言いよりました、ね。他の事はよかばってんね、神様の事を悪く言われることが腹が立つわけです、ね。
まあたいがい許せん事以外ないと思って(親子喧嘩)をしておった時代がある、ね。だから、それはある意味では尊いです、ね。それほどしに神様を思うておる。けれども、そこにもう腹を立てたんじゃあ、顔をあろうてやるとおっしゃるおかげになってこんわけです、ね。あたしはほんとよくこの顔をあろうてやるという事は、顔を立ててやるということ。
例えば、10年前、20年前に、いうなら椛目の時代に散々悪口をいうておった人達もです、ね。もう悪口の段じゃないことになった、ね。その時分に、(?)先生と言われた事があった。このくらいばかりの鯖か鯵かですね。それをその猫が、こう爪を立てたり、ここを引っ張ったりしよるとです。あたしはそのおかげで、もうほんとにそのこれほどしの神様のことをありがたいと思うておるのも、もうさんざんに悪口を言われてですね。
そのことが(はがゆいごと?)神様にじーっと御祈念さしてもらいよったら、鯖のようなね、その魚を頂いて、猫がそれにこう爪を立てたり、引っ張ったりしておる所を頂いた。そしてご理解にですね。さあ、それが情けないならば、それがはがいいならばね。いっちょん、ぶるぶるするごと大きなブリのようになってみいと神様は仰る。もう猫がね、それこそ次も叩ききらんごとなるわいっち仰る。そのような御理解頂いた、ね。
それこそ、ずーっとしてから( ? 見とるごとしよる)しよる。例えば爪立てようと思うてもたてきらん。もう(大きくなっとる?)( ? )こっちが今はさばかあじぐらいの小さい信心だから、こうして皆から爪立てられるんだけれども、ね。おかげを頂いて本気で一つ信心をさしてもろうて、ぶるぶるするようなぶりのようなおかげの信心にはなろうぞ、と始めさせていただいたおかげでです、ね。
もうそういう時分に爪立てよった人が、もうそれこそ、爪も立てきらんようになって、おかげを頂いたということです、ね。ですから、そこでどうして爪を立てよるか、どうして俺がそげんいじめられるか、と言うてあたしが言うておったら、おかげになってない。そこのところ、その事によって一段と、ね。奮発した、発奮した、ということになるんです。
だから、結局よくよく考えてみると、それも神愛の現れであるということがある。なるほど、神のひれいじゃったなあということがわかると、ね。言うて聞かして分からせようとした所でだめ。そういう時には、腹にぐっとばじっと金光様、金光様と、金光様(をさして?)頂いておるうちに、その腹立ちが消えてなくなる所まで行かにゃいかん。
そしてそれが段々わかってくると、腹の立つ段じゃあない、むしろ、お礼を申し上げねばならんことと分かってくる。神様のひれいということが分かってくる、ね。世の人があれこれと神の事を口端にかけるのも、神のひれいじゃと。だから、今日ここの神のひれいじゃということをわかっていきたい。一番最後に顔をあろうてやると仰るところをです。顔をあろうてやるということは、顔を立ててやるということ。
いうならば、あたくしの場合は神様が顔を立ててくださったわけです。だから、まあ当時悪口をやっておった人達は、まあ今では大坪さん、大坪先生とこう言うて下さるように段々なってきたという事、ね。だから、顔を立ててもらうとか、顔をあろうてもらうということは、こういうおかげを受けるという事なんです、ね。
その、顔をあろうてもらうためには、腹を立てなという修行が必要なんです。いちいち腹を立てよったんじゃいつまでたっても神様は顔をあろうて下さる、立てて下さるような事になってこないんです。腹を立てるどころか、むしろそのことに対して神のひれいだとわかったら、お礼を申し上げなければおられない心すら出てくるはずです、ね。
いじめ官女があって初めて、ね、女が生きてくるような、ね。その神様の演出に他ならないのであります、ね。(みよしやま?)の作者が、(おおご?)という(少年?)の役をしておるのも、いよいよ、(大向こう?)から拍手喝采が起こってくる事のために、いじめ官女を作ったわけである。神様の演出なんです、ね。
大坪総一郎を例えば大向こうから拍手喝采してくださるだけたくさんできてくることのために、たくさんないじめ官女がおったということになるんです。(?)ような事には、御礼を言わなければならないことになります。神のひれいだからです、であります。神のひれいとわかったら、御礼を言わなければならない、ね。それを前提としてです。
なるほど、ね。(わかれ?)の定めだから、ああもあろう、子供だから、いや、お酒の上での事だからと色々な頂き方をして、自分の心の腹立ちを、ね、除いていくというか、腹立ちから平生の心にならせて頂く稽古させて頂きながら、それが神のひれいとわかるところまで、信心を分からせて頂かなければならない、ね。どうぞ。
明渡 徳子